第三章 聖賢への道
欲を少なくする
人間の欲望には際限がない。帝国主義時代の英国人で南アフリカの支配者であったセシル・ローズは「惑星をも手に入れたい」と述べたという。人間の想念は自己の維持と自己の快楽とで99.99%が占められているという。人間は生命を維持し、少しばかりの楽しみとゆとりがあればいいというのでは済まない。『雨ニモマケズ』の宮沢賢治のように自ら進んで質素でつつましくは生きたくはない。家が欲しい、車が欲しい、もっといい家に住みたい、もっといい車に乗りたい、おいしいものを食べたい、金持ちになりたいなどさまざまな物的欲望、そして権力欲、支配欲、名誉欲といったさまざまな精神欲もある。
人類をここまで進化発展させたのは、よりよい物を、さらによりよい物をと求めるあくなき欲望のたまものであるといってもよい。人間を成長発展させてきた欲望は人間にとって重要で必要なものである。しかしながら、この欲望が自分だけの我欲となり、自分や自分の一族そして自国の利益と生存のために向けられたとき、人類の歴史が示すように多大な犠牲を伴ったことも事実である。
現代でも、独裁国家があり、戦争、紛争、政治腐敗、経済的汚染など自分や自分たちさえよければという我欲に起因する事件や事故をはじめ多くの問題が噴出している。
戦争はエゴと不信感の上に発生し、自国が生きのこらんがために行われる。現代の地球上で資源の争奪戦、食料の争奪戦となったとき、自国の生存のためいつ核戦争に踏み切らないともかぎらない。日本でも汚染米問題やまた社会保険問題が浮上している。
東洋の先進国である日本が世界各国に向けて「日本の政治、経済、社会体制を範とせよ」と言えるぐらいであって欲しい。また、言えることで世界が変わるはずであると思う。西洋のアングロサクソン系の物質欲が暴走するのを抑えるためには、日本の精神文化が必要である。そういった意味では明治初年に戻り西郷をもっと評価すべきである。大久保は政治家として評価されているが、どういうわけか西郷は政治家としてはその評価は無能であったかのごとくである。
海音寺潮五郎氏は、大久保が目指したのはフランス式の警察国家であり、西郷が目指したのは道義国家であったという。私もそのとおりであると思う。西郷の『遺訓』を読めば、西郷がそういった国家を目指し、ゆくゆくはつくりたかったであろうことはすぐ理解できる。しかし、道義国家など人類がつくったことがない国家である。それが西郷の理想だと言われてしまえばおしまいである。それでも段階を踏んで行えばできないことではない。実際、西郷は留守内閣の間わずかな期間ではあるが少しだけ実験した。
一体、明治維新とはなんであったのか。ベリーの胴喝により開国させられた。欧米列強の科学技術と産業の発達を恐れるあまり、技術や産業を模倣し、西洋に追いつけ追い越せの戦略だけでよかったのか。なぜこういうことを思うのかというと、太平洋戦争においても日本と対峙したのは欧米列強(アングロサクソン系)であり、結局は幕末と変わらない状況ではなかったのか。
明治の文明開化という欧米化政策は戦後の対米追従政策に似ている。アングロサクソン系白人のDNAまでを頭に入れた計算をして仲よくしなければならない。大航海時代のヨーロツパはインカ、アステカ、マヤの各文明を滅ばし、奴隷貿易を始め、アメリカ大陸を占有、帝国主義時代にはアジア諸国を植民地化した。国家としての欲望のかたまりである。現代のアフガニスタン、イラク戦争もあまり違いはないように思える。大久保の政治手法や性格は欧米人にはすぐ読める。常に自分たちが使う手法だからである。しかし西郷の手法や性格は読めない。それは「仕末に困る人」だからである。
後で歴史をああだこうだと言うことはできないが、廃藩置県の断行に西郷を活用するだけでなく、派閥や権力争いや権謀術数といった私利私欲を捨て、討幕という大きな目標に向かっていたときのように、西郷にその後の日本を任せていたら日米開戦はなかったかもしれない。大義のためと思っても、権力欲や支配欲、名望欲を少なくすることは、大久保、木戸、岩倉にとっても難しいことである。誰しも自分の思う体制にしたいのである。自分の政策が一番正しいと思っている。他人の風下には立ちたくない。そのため欲を出し自分の有利な方へ有利な方へと事を進めていく。そこに西郷の言う「己を愛すること」が自然と入ってくる。
『遺訓』の中で「真に賢人と認むる以上は直ちに我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ」と西郷が言っているように、自分より立派で仕事ができる人が現れたら、自分の職を直ちにその人に譲るということは、大久保、木戸、岩倉にはできない。一面この権力欲のなさが西郷の政治上の欠点とも言える。毛沢東のように、己の政策を推し進めるためには権謀術数を駆使し、政敵を排除しなければならない。西郷はそれをあえてしようとはしなかった。
政治家や指導者の考え方、判断決断はその国の命運を左右する。斉彬と久光の判断決断の違い、討幕の過程におけるそれぞれの指導者の考え方決断の違い、それらによって結果は全く違うものとなった。そして、この判断決断に左右され被害を受けるのは常に国民である。だからこそ、命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬという無私をもって判断決断をするようでなければならない。
欲望はさまざまな形と種類があり、しかも時と場合に応じて強くなったり弱くなったりする。実にコントロールするのは至難の技といえる。政治家や指導者は己の欲を知り、常々コントロールしておくべきである。
西郷は後年「人間一生の修業は欲を離れきることにある。それによって、人間は慈愛に達する。すなわち天地の慈愛と合致できるのである」と言っている。