第二章 道義主義
3 天賦人権思想の限界
アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に明文化され、その基となった思想が、「すべて人間は生れながらにして自由・平等の生活を享受する権利を持つ」という天賦人権論である。十七、八世紀の自然法学者・啓蒙思想家によって主張された。封建領主や専制君主の時代に「民衆」という概念が誕生し台頭してくると、領主や君主の所有物ではない民衆の存在を意識させなければならなかった。自然の流れとして、民衆の人権は領主や君主が与えたものでなく、天が人間に平等に賦与した権利という天賦人権の思想になってくる。現代の民主主義国家の多くはこの天賦人権思想に基づいて形成されていると言ってよい。
人権とは人間として生まれながらに持っている権利(実定法上の権利のように恣意的に剥奪または制限されない基本的人権)である。人類は原始の時代は大自然の中にあって他の動物と同様に自然界の一部であったが、進化するに従い文明を生みだし自然界から独立した存在となった。人間は他の動物とは異なる別の生命体であると意識し、人間の存在は神や創造主によって創造された特別なものとした。特別な存在であるがゆえ、天は人に対して平等に人権を賦与したとするのが天賦人権論であろう。世界の民主主義国家の多くは主権在民であり、自由・平等・法治主義を謳っている。
しかしながら、現在でも世界の各地で内戦は継続中であり、それにより何百万人もの難民が生まれ、発展途上国では貧富の格差が広がっている。内戦や貧困、自然災害などによる被害が起き、特に子供や女性の被災が多い。これらは今に始まったことで
はなく、天賦人権説が唱えられた十七世紀以降、二十一世紀の今日まで絶え間なく続いている。二度の世界大戦もあった。
天が人間に等しく与えた人権であり、それは人が生まれながらにして持っているはずだった。しかしながら現代でも宗教を主体とする国家や独裁国家もあり、人権は平等に与えられているだけであって、平等に行使されるかどうかは約束されないのである。人間の子として生まれても国や地域の違いで異なり、自分の意志ではなく環境に大きく左右されると言ってよい。
人権が封建領主の時代なら、領主や国王を超える存在として天から与えられたものであっても良いかも知れない。
だが、それでは人権は与えられるもの、守られるものという受身の意識であり、今後も環境に左右される人権が続いて行くだけである。そこに人間の進化はないであろう。人権は天などという仮定から与えられるものではなく、人間が自らつくり、自らの手で守らなければならないはずだ。民主主義が進化していなければならない二十一世紀の現代においてさえ内戦紛争、テロ、貧困など人権が損われる環境はいくらでもある。「国際非政府組織(NGO)オックスファムは平成二十六年一月二十日、世界で貧富の差が拡大し、最富裕層八十五人の資産総額が下層の三十五億人分(世界人口の半分)に相当するほど悪化したとの報告書を発表」との新聞記事を目にした。地球上のすみずみにまで自由主義貨幣経済が行き渡ろうとしている。
歴史が示しているように、人権は貨幣の前では脆く崩れやすい。天や創造主といったものが人に対し生まれながらにして平等に与えたならば、人権は神聖であり何びとも侵すことのできない絶対のものであるはずだ。
その天の意を体して生きている人間が、天の意に沿う社会や国家をつくりあげることこそが、天が賦与した人権の本質ではないだろうか。天は何もしないのである。結局は人間がつくる以外ないと言える。自分の人権は相手の人権であり、自分以外のすべての他人の人権でもある。人として誕生したら人類の財産である教育を平等に受けられるように、社会や国家はつくらなければならない。そして人として成長することで他人の人権も尊重できるようになるのである。